施設情報(2024年5月現在の情報です)
住 所 | 〒238-0042 神奈川県横須賀市汐入町1-1 (地図) |
電 話 | 046-845-6660(ヴェルニー公園管理事務所) |
入園料 | 無料 ※一部有料施設あり(ワーキングスペース / ティボディエ邸体験型ムービー / レストラン) |
時 間 | 24時間 ※一部時間制限あり(ヴェルニー記念館 / ワーキングスペース / ティボディエ邸 / レストラン) |
休 日 | 無休 ※一部定休日あり(ヴェルニー記念館 / ワーキングスペース / レストラン) |
駐車場 | 第1駐車場:普通車10台(障がい者用2台) / 第2駐車場:普通車4台 普通車1時間420円、以降30分210円、24時間入出庫可 |
ホームページ | https://www.kanagawaparks.com/verny/ |

ヴェルニー記念館


入館無料。営業時間9:00~17:00。休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始(12月29日~1月3日)。
ヴェルニー記念館
横須賀製鉄所(造船所)建設を指揮し、日本近代工業化の礎をつくりあげたフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績と横須賀製鉄所の意義を永く後世に伝えるために、建てられました。横須賀製鉄所で使われていた「スチームハンマー(国指定重要文化財)」なども展示しています。ヴェルニーは、来日前フランス・ブルターニュ地方のブレスト市(横須賀市姉妹都市)にある海軍施設の造船技師でした。ヴェルニー記念館の建物は、ブルターニュ地方の住宅の特徴をとり入れています。
現地案内看板より

平成9年(1997年)まで「在日米海軍横須賀基地艦船修理廠」で使用され、平成12年(2000年)に横須賀市に移管された。平成15年(2003年)5月29日、国指定重要文化財。

昭和46年(1971年)に横須賀市へ移管され、横須賀市中央公園で屋外展示されてきた。昭和54年(1979年)横須賀市指定重要文化財。平成10年(1988年)6月30日、国指定重要文化財。

船の科学館が所蔵していたものを横須賀市が借用してここに展示。大正7年(1918年)6月1日に横須賀海軍工廠で起工され、大正9年(1920年)5月31日進水、大正10年(1921年)竣工。昭和9年(1934年)~11年(1936年)にかけて横須賀海軍工廠で大改装が施された。
スチームハンマーとは、蒸気(スチーム)を動力としてハンマー(槌)を持ち上げてこれを落下させ、加熱した金属素材に打撃力を加えて鍛造作業を行う工作機械で、19世紀半ばにイギリスで実用化されたものである。
現地案内看板より
この2台のスチームハンマーは慶応元年(1865)に製造され、その翌年に江戸幕府が進めた「横須賀製鉄所」の据え付けの機械としてオランダから輸入されたものである。明治時代以降も改編や拡張が続けられた後身の施設である「横須賀造船所」、「横須賀鎮守府造船部」、「横須賀海軍造船廠」、明治36年(1903)から昭和20年(1945)までは「横須賀海軍工廠」の付属機械として稼働し、戦後は「在日米海軍横須賀基地艦船修理廠」で使用されてきた。
(中略)
この2台のスチームハンマーの移設と復元修理は、平成14年(2002)3月に完了し、ヴェルニー記念館も同年5月1日に開館した。
このスチームハンマーは日本の近代化が本格的に開始された頃の技術を伝える重要な歴史遺産として永久に保存されるものである。
大正10年(1921)、世界初の40センチ砲搭載戦艦”長門”の二番艦として竣工し、昭和9~11年(1934~36)にかけて大改装が施され、攻撃力・防御力ともに飛躍的に強化されました。しかし、昭和18年(1943)に瀬戸内海の柱島の南西約2kmの地点に碇泊中、原因不明の爆発事故を起こし沈没しました。(後略)
現地案内看板より
ヴェルニー公園から見える艦船

横須賀港に沿って細長いヴェルニー公園は、西側は海上自衛隊に接し、対岸には米海軍横須賀基地があり、日米の艦船を眺めることができるスポットになっています。ヴェルニー記念館の裏手に回ると、海上自衛隊横須賀地方総監部の建物横の逸見岸壁に停泊する艦船をとても間近に見ることができます。

昔々呉市に住んでいた頃、しらせに乗ったことがあるなぁと思い出し(幼かったので「乗った」という事実以外覚えてない)、ネットて調べてみました。【昭和58年(1983年)5月28日呉港入港、初日から6000人と大盛況(中国新聞)、今のしらせは2代目で、当時の初代しらせは2008年に退役後、スクラップ危機を乗り越えて今は船橋港に係留され第二の人生(船生)を送っている】
初代しらせ、意外と近くにいることが分かり40年ぶりに会いに行きたくなりました。


戦艦陸奥主砲




“本砲弾は「長門」型戦艦の主砲で用いられた砲弾で、九一式(昭和5年制式化)もしくは改修された一式徹甲弾です。” 案内看板より


戦艦陸奥主砲を過ぎて園路を進む



操舵輪の後ろにある六分儀型ホルダーに自転車の車輪をセットすると、自転車と操舵輪が一体となった姿が写真に撮れるとのこと。

また、この管理事務所の周りは「さくらの広場」となっていて、建物を取り囲むように桜の木が植えられています。
逸見波止場衛門


逸見波止場衛門
現地案内看板より
通称 逸見波止場衛門は1930年頃に造られ、正式名称は「海軍番兵塔・軍港正門門柱」と言い、横須賀軍港の正門でした。2棟ある塔の屋根は銅板のドーム状で、頂上の飾り(クーポラ)や庇の形状から少年の帽子が連想されます。当時は、この門を入ると、正面に、海軍鎮守府や海軍工廠のある横須賀軍港に向かうための船着き場があり、横須賀軍港への船が発着していました。門には番人がおり、関係者以外が入らないよう見張っていたと思われます。海軍鎮守府や海軍工廠は、現在、この門のあるヴェルニー公園の対岸に見える在日米海軍横須賀基地に置かれていました。逸見波止場衛門は、日本遺産構成文化財の一つとして認定されており、海軍の歴史と面影を今に伝えてくれます。



逸見波止場衛門から公園内に戻り園路を進む


小栗広場



“フランス人の造船技師で、海軍増強をめざした江戸幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した。” 現地案内看板より

“日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進した。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された。” 現地案内看板より

2人の胸像の真ん中に置かれている。小栗上野介が斬首された上野国群馬郡権田村(→群馬県群馬郡倉渕村→2006年に高崎市に編入され現在は高崎市倉渕町権田)内の烏川の水沼河原の石。昭和28年(1953年)に臨海公園(現ヴェルニー公園)で開催された開港祭の時に倉渕村から寄贈されたもの。写真を拡大して、石に文字が刻まれていることに初めて気付きました。

ヴェルニーと小栗上野介の顕彰碑。横須賀商工会議所が中心となり、ヴェルニーと小栗上野介の胸像と合わせて昭和28年(1953年)設置。
碑文「徳川幕府ノ末期時ノ勘定奉行小栗上野介ハ海国日本ニ造船所ノ必要ヲ覚リ百般ノ費用ヲ節シ囂々タル非難ノ中ニ仏国ヨリ技師ウエルニーヲ招キ横須賀製鉄所ヲ設クウエルニーハ此ノ設立ニ従事スルコト前後十年萬難ヲ排シテ之ヲ完成ス両氏ノ功ヤ横須賀市今日ノ礎ナリト信ズ」
横須賀製鉄所跡地


対岸が横須賀製鉄所があった場所。1871年、横須賀造船所に名称を変更。1884年、横浜の東海鎮守府を横須賀に移転して横須賀鎮守府となり、鎮守府直轄造船所となる。1903年、横須賀兵器廠と合併して横須賀海軍工廠となり、戦後は在日米軍の管理下となって現在に至る。
近代日本のルーツ 横須賀製鉄所
世界遺産の富岡製糸場のモデルとなった横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)は、現在のヴェルニー公園の対岸あたりに、慶応元年(1965年)の鍬入れ式から様々な施設が建設され、横須賀の街とともの発展しました。
最新の加工機械などが導入され、日本の近代工業の礎を築くとともに、日曜休日制や労働時間、メートル法、健康診断などの新しい仕組みが横須賀製鉄所で始まりました。
また、正面に見えるドライドックは、当時は欧米諸国にも負けないものだったとされ、現在も現役で利用されています。今も残る「横須賀製鉄所」のドライドック
ドライドックとは、艦船を修理するために使う施設です。正面に見える3基のドライドックは、向かって右から第1号、第2号、第3号と並んでいます。
現地案内看板より
水面近くに「A」、「B」の文字がある鉄の板が見えますが、それがドックの扉です。
明治4年(1871年)に完成した1号ドックは日本最古の西洋式の石造ドックで、今も現役で使われています。




展望デッキを過ぎて園路を進む

2022年3月、あずまやの中に街なかピアノが設置されました。演奏可能なのは土日祝とローズフェスタ期間中の10:00~16:00(雨天・雨の可能性のある曇天時は不可)。ピアノ教室や団体の演奏会にも利用可。
ヴェルニー公園のバラたち

例年だと春バラは5月上旬~下旬、秋バラは10月中旬~11月中旬ごろが見頃で、春秋合わせて約130種類1,300株のバラが植えられています。
「バラ越しの艦船」なんて写真が撮れる場所はそんなにないんじゃないですかね!?

定期的にバラの管理講座なども行われているようです。

2023年10月、芝生エリア内フォトスポットのアイテムが舵輪型のオブジェ→どこでもドア風ドアに変わりました。


















よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸

ティボディエ(ジュール セザール クロード ティボディエ)とは、横須賀製鉄所の副首長として明治2年(1869年)に来日したフランス人で、首長ヴェルニーが帰国した後も明治10年(1877年)まで在籍しました。

横須賀製鉄所副首長ティボディエの官舎として明治2年(1869年)に建築されたティボディエ邸。平成15年(2003年)に解体されましたが、その小屋組みを移設復元した実物展示や、横須賀製鉄所の歩みなどを展示しているのがこの「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」です。※外観は復元ではなく再現したもの。
入館無料(シアター観覧200円)、定休日なし(臨時休館あり)、営業時間9:00~17:00。
よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸
幕末の1865年、江戸幕府の勘定奉行小栗上野介が中心となり、フランスの海軍技師レオンス・ヴェルニーを招き横須賀製鉄所の建設が始まりました。
現地案内看板より
ティボディエ邸は、横須賀製鉄所副首長であったティボディエの官舎として、1869年頃に建築された本州最古級の西洋館です。
よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸は、その当時の外観を再現するとともに、館内では、木骨煉瓦造りの壁とトラス構法の屋根構造を、当時の建物から移設した部材で復元しています。

ここでは、大型モニターやデジタルマップなどを使って横須賀市内に点在する近代遺産や観光スポットを紹介しています。これらのスポットを「サテライト」とし、サテライト間を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として周遊を促す「よこすかルートミュージアム」の拠点としての役割を担っているのが、ここティボディエ邸です。
常駐しているハイカラさんスタイルのスタッフさんに直接聞いても丁寧に教えてくれますよ。
また、写真上部に見えている屋根を支えるトラス構造の骨組みの木材は、旧ティボディエ邸解体後に保存していた当時の部材を使用して復元されています。


ヴェルニー公園の石碑群



「横須賀や 只帆檣の 冬木立 子規」
“明治21年(1888年)8月、正岡子規は夏季休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒木落木」に収録されている。” 案内看板より

碑文表「原始 海は生命の故郷であった その海に果て その海深く眠る
戦友たちの御魂やすかれと いのちながらえしもの あい集い 再び いくさあらすなと
ねがうものなり
浮雲一片流北辰 何人不起望郷情 有時霊魂亦還家 夜半南星漂蒼海」
碑文裏「跋文 沖島は昭和十一年九月三十日竣工基準排水量四四七〇屯の日本海軍最大の敷設艦であった。機械水雷の敷設艦として支那方面の沿岸封鎖作戦あるいは南太平洋海域の幾多の海戦に参加昭和十七年五月十一日ソロモン群島ブカ島クイーンカロラ沖四十浬の地点において海底の柩と化した。四十四名の遺体を乗せて沈没当時の姿のまま海底に眠る艦を思うと生存者一同いたたまれぬ思いにかられる。ここに慰霊碑を建立亡き友の望郷の心を偲びご遺族をお慰めるものである。」

碑文表「ありし日の 聨合艦隊旗艦長門の姿を こゝに留めて 昭和激動の時代を偲ぶよすがとする 政一書」
碑文裏「ここに記念する軍艦長門の勇姿は、昭和初頭のそのさながらの艦容である。長門は大正六年八月二十八日、呉海軍工廠において起工し八年十一月九日命名進水、九年十一月二十五日に竣工した。この翌年横須賀で建造された同型艦陸奥と共に、技術の粋を尽くした世界最大最強の戦艦といわれた。40cm主砲を始めて搭載し、檣楼や防御方式など多くの独創を採り入れた最初の高速戦艦でもあった。其後さらに昭和十一年まで大改装が施され艦容を一新している。就役以来横須賀鎮守府に所属し、久しく聨合艦隊旗艦となり、国の護りとして国民の心に親しまれた。大東亜戦争はもとより諸方に活躍し終戦に至るまでその巨影を完うした唯一の戦艦である。昭和二十年九月十五日を以って艦籍を解かれ、ビキニの原子爆弾実験にさすがにその強靭さを示しながら名艦の終末を告げた。いま追惜の念から、国民有志の醵金によって、旧母港の勝地にこの碑を建てる。」

軍艦の艦橋を模したデザイン。正面に「國威顕彰」の文字、裏面にはこの顕彰碑が造られた当時の領海地図と碇の絵が描かれている。
碑板が全てはがされており、詳細不明。

碑文「軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和十九年十月捷第一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となり又魚雷艇及び駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部砲塔からは間断のない砲撃が続けられたで有りましたが、悲愴にも力つきた。
山城は乗員千六百余名と共にスリガオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和十九年十月二十五日午前四時十九分。
ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊祭を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争の惨禍の起こることのないようにすることを決意し此の碑を建立する。」

碑文「浦賀に黒船が現れ、鎖国の夢を破られた幕府は、ここ横須賀の地に製鉄所を建設し、近代海軍の創設を企画した。その後、明治維新により明治政府が樹立され、政府は、西欧諸国に比し一世紀以上の遅れを取り戻すべく、我が国の近代化に着手した。特に海軍の整備が重要視され、日清及び日露両戦役を経て、わが国の海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一つとして、その地位を占めるに至った。こうした近代海軍の創設及び成長という歴史の流れの中において、横須賀はその最枢要基地として、かつての一寒村からわが国屈指の軍港都市となり、発展を遂げることになった。しかしながら、その海軍も昭和二十年の太平洋戦争終結と共に八十年に亘る歴史を閉じることになった。海軍終息から五十年という節目に当たる本年、明治以来太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、並びに太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、またわが国の永遠の平和を希求するため、この記念碑を建立する。なお、本記念碑は全国の海軍関係者及び有志から寄せられた浄財によるものである。
平成七年十一月十七日 海軍の碑建立委員会」
石碑群を抜けヴェルニー公園東側出入口へ

七里ガ浜にある「AMALFI」の系列店。


ここがヴェルニー公園の東の端っこで、ベンチや子供向け遊具がある広場。新年カウントダウンやカレーFesなど、イベントにもよく使われる広場です。
【おまけ】YOKOSUKA軍港めぐり


横須賀港は、1865(慶応元)年に横須賀製鉄所が建設されたことを契機に、日本海軍の拠点として発展してきました。横須賀本港と長浦港は、米海軍と海上自衛隊が利用しており、軍港めぐりは、両方の艦船を間近に見ることができるクルーズです。海上自衛隊の潜水艦や護衛艦、米海軍のイージス艦、運が良ければ空母、砕氷艦(南極観測艦)など迫力満点の艦船を見ることができます。館内では、個性あふれる案内人が毎日変わる艦船の名前や役割をわかりやすく解説し、クルージングを盛り上げ、楽しませてくれます。また、その日によって艦船も案内人も違うので何度もワクワク体験を味わうことが出来ます。ぜひ歴史ある横須賀のまちを海から眺めて楽しんでください。
よこすかルートミュージアム公式ページより

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