※2022年2月3日現在の状況です。
康平六年(一〇六三)、前九年の役の戦功により、三浦半島を領地として与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名乗り、現在の衣笠町に衣笠城を築きました。以後、数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して、衣笠城の守りとしました。
この台地は、第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連が、城を築いた所と伝えられています。現在、この台地を中心に残っている地名に、的場・射矢谷・殿騎・城戸際・駿馬入・腰巻などがあり、自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子をしのばせてくれます。
この台地の前方、北から東にかけての地域は、内川新田と呼ばれ、工業団地になっていますが、当時は深い入り江となっていました。この入り江をはさんで、対岸に怒田城がありこの佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
また、この台地は、昭和五十一年の一部発掘調で、弥生時代中期(約二〇〇〇年前)から飛鳥時代(約一四〇〇年前)にかけての村の跡であることも明らかになっています。七、八軒の家があって、この谷戸付近に初めて水田を開発し、稲作農業を営んでいたと考えられています。横 須 賀 市
案内看板より(現在は撤去されている)
Wikipedia(佐原城)
Wikipedia(佐原義連)
久里浜観光協会(佐原城址)
カナロコ(横須賀・佐原城跡 埋もれた歴史に光 石碑周辺を整備)
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